#26 2月14日
羊羹では駄目なのだろうか。なぜチョコでなければいけないのだろう。
2月14日。
今年もとうとうこの日がやってきた。いろんな人の悲喜交々イベントである。
初恋を”甘酸っぱい"と表現するくせに、なぜバレンタインで渡すのはチョコなのだろう。
夏みかんや伊予柑の方がよっぽど甘酸っぱいではないか。
「下駄箱で意中の男子が現れるのを今か今かと待つ女子高生。
心待ちにしていた男子が現れると精一杯の勇気を振り絞って声をかける。一生分の勇気を今使っていることが、震えている自分の足と声から判る。
恥ずかしさで赤く火照る自分の耳を、頬を悟られまいとして、伊予柑を渡して風のように走り去る女子高生。
男子生徒は渡された伊予柑に戸惑い、家に帰って「食べていいよ」と祖母に渡す。その伊予柑に彼女の好意が詰まっている事に気付いたのは、祖母が伊予柑を「これ甘いね」と言ったその瞬間であった。」
そんな青春小説があってもいいではないか。帯には谷川俊太郎先生あたりが「宇宙もびっくりする甘酸っぱさ!!」とか書けばバカ売れじゃないか。
バレンタイン。
ぼくはこのイベントをあまり好んでいない。
チョコが貰えないからではない。むしろ貰えるのだ。無論、本命ではなく義理のものである。
この義理のチョコ、有難いようで非常に鬱陶しい。
こちらは一言も催促していないにも関わらず、女性は2月14日になると戦後の米兵のように問答無用でチョコを与えてくる。「おれギブミーチョコレートって言ったっけ?」と不安になってしまうほどの好意の押し売りである。これらの義理チョコは無下に断る事などできず、受け取らざるをえないのである。
しかし、100歩譲ってこれはまだいい。1ヶ月後にチョコを返せばいいだけなのだから。「ギブアンドテイクをチョコレートで行うイベントなのだ」と割り切ることができる。不毛である事に疑いの余地は無いがプラマイゼロで損はしていないのだからまだ我慢出来る。
真に厄介なのは、義理なのかどうか読めないチョコである。
大昔、ぼくがまだ20代だった頃、2月14日にチョコをぼくに渡してくれた女性がいた。その女性は情緒が不安定である事で有名で、笑っていたその次の瞬間には大声で泣き喚いているような、なかなか感情の振り幅が豊かな方であった。そういうタイプの方をぼくは彼女以外に野々村元議員しか知らない。ぼくの嗅覚は "あまり近寄らずに適度な距離感を保つべし" という危険な匂いを捉えていた。その女性が手作りのチョコをぼくのために持ってきてくれたという。
「長澤さんにしか作ってませんから。」とその女性は満面の笑顔で言った。
なぜ僕なのだろう。彼女とは二言三言ほどしか会話を交わした覚えはなく、親密度で言えばまだまだ下の下である。しかし彼女はぼくの為に作ったのだと笑顔で言う。ぼくは顔から笑みを絶やさないようにする事で必死だったが、もし近くに練炭があれば購入していたかもしれない。
ぼくはそのチョコを持ち帰ったものの、持て余した。圧倒的に持て余した。どうすればいいかわからずにいた。食べるべきなのかどうかすらもわからなかった。いや、食べないという選択肢は早い段階で消えていた。後日感想を尋ねられる事は避けられず、食べてなければ感想を述べられない。
理想は、食べた上で不味い事である。
不味ければ彼女への感謝の気持ちが増す事はない。「個性的な味でした」と感想を述べればいい。
最悪なのは、食べて美味しいと感じてしまった時である。
もう一回食べてみたいな、と所謂胃袋掴まれた状態になってしまった時だ。
どうか不味くあってくれ!! そう願いながらぼくはケーキを恐る恐る口に運んだ・・・。
ふ、、ふ、、普通だ!!!
なぜだ!! だいたいこういう時は美味いってのが相場だろ!葛藤させろ!もっと俺を葛藤させろ!
オチとしては非常に弱いので、これを人に話す機会はなかなかやってこない。
そんなほろ苦い記憶である。
※写真は件の彼女の写真です。ゴリラのように見えますが、れっきとした人間です※
0コメント